記憶が人間を作る?曖昧な記憶をどう捉えて自分らしく生きていくか。
先日、本を読んでいて出会った言葉があります。
あなたは自分が記憶の持ち主だと思う。だが本当は、記憶があなたの持ち主なのである。
ジョン・アーヴィング
イギリスの小説家の言葉だそうです。
なるほど興味深いなと思ったので、今日は少し普段から思っている記憶にまつわることを、思いのままに書いてみます。
お時間ある方はぜひお付き合いください。
人生とは思い出で出来るもの。
私は、人生とは思い出を積み重ねていくことだと思っています。
それは、決して物や写真として残される物理的な思い出ではなく、
自分の脳内にある記憶という意味での、思い出のことです。
自分が死ぬ時に何を、誰のことを、どのように思い出せるか。
最期の瞬間に過去を振り返った時に、
楽しい幸せな思い出が蘇ってくるのであれば、
例えその楽しかった時間が人生全体としては実際にはほんの短い期間だったとしても、
良い人生だったと思えるのかな、と思います。
なので、私は冒頭の言葉の「記憶があなたの持ち主」であるというのは、
「記憶が私たちを作り上げている」という意味合いだと解釈しました。
私たちが生きていることで記憶を作っているとも言えますが、記憶が私たちを作っているとも言えると思います。
まぁ、卵か先か鶏が先かという議論になるところかもしれませんが。
私たちの記憶はありのままの現実ではない。
私たちが物事や他人を何気なく見ている時にも、私たちは無意識に自分の記憶や価値観というフィルターを通して状況を判断しています。
私たちが誰か特定の人といる時に安心感や幸福感を感じられるのも、
その相手と、認め合ったり助け合ったり、喧嘩したり困難を共に乗り越えたり、
そういった過去の記憶があるからだと思います。
もちろん、初めて出会った人と楽しい時間を過ごすことも出来ますし、幸せだと感じることもあるでしょう。
でも、それも、例えば何かしらの共通点という点で盛り上がっているのであれば、
お互いの記憶を媒体として、一緒に過ごした思い出は無くてもお互いの過去をラップさせていると言えますし、
過去に他人と繋がっている感覚や、信頼関係を築いた先にある喜びを知っているからこそ、
未来に期待を抱き、幸福感を先取りして感じることができるのでしょう。
もし、誰ともそのように幸せな信頼関係を築いた記憶が無いままであれば、
誰と出会っても、その出会いに心躍らせ、相手の言動をポジティブに捉えることは難しいのではないでしょうか。
記憶が「人格」を形成する、と言うとまた少し毛色の違う、難しい話になってしまいますが、
私たちの感情は記憶で成り立っている、記憶が私たちを作り出している、というのは、
あながち大げさな表現でもないと、私は思っています。
記憶をベースに私たちは考え、感じ、行動しているのであれば、
記憶によって私たちは操作されているとも言えますので、
記憶が私たちの持ち主、という表現もあてはまりますね。
(進撃の巨人を思い出してきました・・・。)
記憶は常に書き換えられている。
私たちの脳は、写真のネガのように目の前の出来事をあるがままに写し出し、保管することはできません。
自分のこれまでの経験や記憶、そこから培われている思考の癖によって、
私たちは自分の都合の良いように現実を歪めて捉え、
そしてその記憶を何度でも書き換えることが出来るのです。
それほど私たちの脳は曖昧で不完全なものですが、
これは自分たちを守るための防衛機能でもあります。
嫌な記憶をいつまでも忘れられず、
トラウマやフラッシュバックに苦しむ人もいます。
辛くて嫌な記憶を都合よく書き換えたり忘れたりできることは、
そのこと自体の良し悪しは置いておいて、
自分を守り人生を前向きに生きていくための、大切な処世術なんですね。
これは反対に、ネガティブで悲観的な思考の癖があると、
現実を実際よりも厳しく残酷に捉えてしまい、
記憶を実際以上に、より辛く悲しいものに書き換えてしまうということにも、注意しましょう。
更には私たちは過去の経験や感情をベースに未来を予測しています。
未来というのは何年も先の遠い未来のことだけではなく、「こうしたらこうなるだろう」「この後あの人はこう言うだろう」という、数秒先や数分先の未来も含まれます。
なので、実際にはその通りではないことも、自分の予測をもとに、少し現実を歪めて捉えてしまうことが多いんですね。
記憶は繰り返すことで強化される。
時間とともに記憶は薄れ、詳細は思い出せなくなり、出来事の骨組みやその時の感情だけが残ります。
すると私たちは新たな枠組みを自分の中で組み立てて、再度、意味付けをしてしまうのです。
受験勉強をしていた時などにも聞いたことがあると思いますが、
記憶は何度も繰り返すことで定着するものです。
忘れてしまう前に思い出すことで、より強く記憶に残るのです。
思い出す度、書き換える度に、その記憶がより強烈なものとして印象づけられていくのです。
その人が記憶している内容こそが、その人にとっての事実になってしまうのです。
例えば、実際には、軽く注意をされた程度だったのに、
「あの時あの人はあんなに怒っていた」
「私のことが嫌いに違いない」
という認知の歪みから、
「あの人に私はずっと嫌われて生きてきた」
そんな風に記憶が定着してしまうかもしれません。
意識をしていなくても、不愉快だった相手の言動や、嫌な気持ちになった出来事を
何度もそのことを考えれば考えるほど記憶に残り、いつまでも感情とセットで思い出されてしまうものです。
嫌なことがあった時や悩んでいる時は、書き出すというアウトプットをお勧めしていますが、
これは書き出して忘れてしまう、整理して前に進むことが目的です。
何度も何度も愚痴大会のように吐き出し続けていると、それが自分自身の脳内で強化されて、更に強い印象が残ってしまうので、心当たりのある方は注意しましょうね。
記憶は「フィクション」?
記憶を偽造するというと故意の行動のように聞こえますが、
実際には多くの人は意識せずに偽の記憶を作り出せてしまいます。
「あの時彼は確かにこの場にいたはず」
「確かにそれを見たような気がする」など、
曖昧で不確かな情報を、悪意もなく、さも本当であるかのように記憶してしまうのです。
また、その時には現実通りに覚えていたとしても、後から追加された別の情報によっても、私たちの記憶というのは簡単に書き換えられてしまいます。
どんなに記憶力の良い人でもです。
私たち人間の記憶がいかに曖昧かということに関しては、様々な研究や実験結果が報告されていますので、
興味のある方はぜひ調べてみてくださいね。
良い記憶を強化していこう!
記憶がこのように曖昧なものであるのであれば、自分にとって望ましくない記憶というのは、一度疑ってみるのもいいかもしれません。
それは、誰かを責めたり、今目の前にある自分の責任を回避するためでなく、
自分の中で過去の出来事をうまく清算し、過去は過去のものとして前向きに今を生きるためです。
過ぎ去った過去にこだわって苦しんでいたり、終わった出来事にクヨクヨして自分を責めたり自己否定を繰り返したり、過去の言葉に何度も傷付いているのであれば、
その意味付けを、自分の中で変えてあげれば良いのです。
「あの事件で私はあんなに傷付いて、たくさんのものを失った。でも、そのおかげでこんなものを得ることができたんだ」
「あの人の言葉に私はすごく傷付いたけれど、あれはあの人の価値観を元にした感想であって、事実ではなかったかもしれないな」
「いつも怒られていたと感じてたけど、よく考えたらそんなに頻繁ではなかった気もするし、優しくしてもらったこともあったな」
など、ネガティブな出来事をポジティブに変換したり、自分の思い込みであった部分に違う視点を与えてあげることで、
過去の捉え方が変わり、今の生き方や自信、自己肯定感に影響を及ぼします。
物事には必ず2つ以上の側面がありますから、
今のあなたがもし、思い出して苦しいという過去や記憶があるのなら、
その思い出と一度ゆっくりと向き合って、違う側面を探してみましょう。
自分の記憶に根拠があるか、物事の見方に偏りがないかを考えてみましょう。
もちろん、きちんと証拠として残しておきたい出来事や記憶があるのであれば、
あてにならない脳の記憶を頼るのではなく、
どこかに書くなりして、時間が経ってもきちんとそのままの状態で残る形で保存しておきましょう。
相手にどう記憶されたか。
自分がそうであるように、相手も相手のフィルターを通して物事を捉え、相手の都合で記憶をします。
相手にどんな風に覚えておいて欲しいとか、どんな印象を持っていて欲しいというのは、
こちらでコントロール出来ることではありません。
こちらの意図とは違う捉え方や、記憶の残し方をされていることもありえます。
これは、他人でもそうですし、親から子への関わり方もそうです。
親が意図していないメッセージを子供が受け取ってしまい、
それを記憶として積み重ね、大人になってもその影響を受けて生きていることが多いのです。
そういった記憶や学習の積み重ねから、自己信頼感や他者信頼感、他人や世界との関わり方が変わっていくのですね。
そういったお話は、交流分析を紹介した記事でも書きましたので、ぜひご参考ください。
→ 様々な心理療法~交流分析⑦~「人生脚本」あなたを縛りつけ苦しめている脚本を書き換えよう!
相手の思い出にどのように残るかは、その本人しか分かりません。
そしてあちらの記憶もどんどん書き換えられていきますので、もうどうしようもありません。
もちろんそれは、自分が思っているよりも悪い方向に書き換えられることもあれば、良い方向に書き換えられることもあります。
でも、どちらにせよコントロール不可能な領域なんですね。
今も未来も、記憶というのはあてになりませんので、「今」、自分がどう立ち振る舞うか。
少なくとも自分の記憶の中では、後から思い出した時に誇れる自分でいられるように、
毎日の行動や、周りに投げかけるメッセージを、意識して過ごしていきたいですね。
もちろん、いつもお伝えしているように、人間ですから完璧であることはできません。
悩んだり落ち込んだり失敗したり、そんなことを繰り返しながら、それでも必死により良い自分になろうとした、成長しようとした、大切な誰かのために必死だった、
そんな自分の頑張りを、すべて温かく包み込んであげられると良いですね。
そしてそんな自分の姿が他人の記憶にどう残るか。それは分かりませんが、
そんなあなたの姿を見ている人は、どこかに必ずいるはずですよ。
最後に。
私は父を幼い頃に癌で亡くしました。
物心着いた頃から父は入院しており、
父との思い出は、病院のベッドや面談室での記憶しかありません。
でも、私が記憶している思い出のうち、どこまでが実際に起こったことで、どこまでが私の空想だったのか、
今となっては検証することは出来ません。
「お父さんと良くこんなふうに遊んでたんだよ」
「このパズルは病室で一緒に作ったんだよ」
と、母や周りに言われて、
幼かった私は色々な想像をし、その空想の一部が私の思い出として今でも記憶に残っているだけ、という可能性も大いにあると思っています。
でも、もしそうであれば父との記憶はすべて偽物か?と言われると、
私は、そんなことは無いと思います。
仮に、それは偽物の記憶だよ誰かに言われたとしても、
私の中では、確かにある、あると思っている、大切な父との思い出なのです。
自分も含め、誰かが生きていたという証というのは、最終的には曖昧な思い出の中だけにしか残らないと思います。
でも、別にそれで良いのではないかと思います。
全ての瞬間を正確に切り取って記録し、覚えておく必要はないと思うのです。
他人がどう思おうと、科学が何を検証しようと、そんな世界に私たちは生きているわけではなく、
結局はすべて、私たちが過去や現実をどう捉えるか、何を信じるかによって、
私たちの世界や記憶は形作られていくんだと思います。
なので、例えばもし事故にあって記憶がなくなったりしたら、
その人にとっての世界というのは、その後どんなに同じような経験を重ねたとしても、二度と同じものにはならないですよね。
そんなことが無いとしても、自分のこれまでの価値観をすべて覆してしまうような大きなパラダイムシフトが起きることによっても、
見える世界はガラリと変わってくるかもしれません。
そう考えると、私たち一人一人が生きている自分の世界というのは、
いつどう変わるか分からない、すごく儚くて、尊いものですね。
自分の人生のストーリーは自分だけのもの。
私たちが見ている世界をまったく同じように他人に見てもらったり、共有することは、決して出来ない、自分だけのものなんですね。
だからやっぱり、「自分がどうしたいか・どうありたいか」というのを、
常に意識して優先するということは、とっても大事なことだと思います。
社会で生きていく中で、相手に合わせたり気が進まないことを受け入れることもあるかもしれませんが、
トータルでバランスを取ることと、自分がそれを選択していると自覚することが大事かなと思います。
今の自分を好きでいられるよう、毎日小さな幸せを感じて生きていく。
そして、そんな風に幸せだと感じられる思い出と、大切な人達を愛し、愛されているという記憶を、これからも積み重ねていきたいなと思います。
自分の人生は、死ぬまで一生、自分で作り上げていくものですからね。
これを読んでくださった皆さんの世界も、これからもっと素敵な思い出で溢れていきますように。
神田華子でした。