他人と比較して落ち込んでしまう人へ。人と違うという安心感を知ろう!
「いつも自分を他人と比較して落ち込んでしまう。」
「他人は他人、自分は自分って分かっているのに、人と比べて自分に足りないものばかり数えてしまう。」
そんな人、多いのではないでしょうか。
隣の芝生は青い。
昔から言われてきた言葉ですし、日本だけではなく世界のあちこちで同じような諺が存在しています。
特にSNSの流行により他人の生活が簡単に目に入るようになってきました。
私にはあんなに友達はいない・・・。
あんな素敵なパーティーに行ったことない・・・。
あんな豪華な料理食べたことない・・・。
家庭的な旦那さんで羨ましい・・・。
でも、それって正しい比較でしょうか。
今日は、他人と比較して落ち込んでしまうことがある、というあなたに、とっても大切なことをお伝えしたいと思います。
他人は自分とは違う。
まずは、他人と自分とは違うという大きな大前提を思い出していただくとともに、「他人と違うという安心感」を感じて欲しい、ということです。
「人と違う」ということを、なんとなく恐れている人がいるかもしれません。
でも、人と違うということが前提にあるということは、実はすごく安心できることなんです。
日本では特に、周りと同じであること、周りと比べて目立たないことが良しとされてきました。
それは、安心でもあり安全でもあった、そう思ってきたかもしれません。
でも、それと同時に感じてはいませんでしたか。
他人と同じことが前提としてあるということの、肩身の狭さ、息苦しさ。
そういったものは心のどこかで感じていたはずなのに、みんな一緒が安心安全という合言葉に言いくるめられ、
他人と違うことをすることが良しとされない、みんなと違う意見を言うことが許されない、そんな窮屈な閉じられた世界で生きてきた私たちは、
いつの間にか「同じであること」を前提に周りを見て、相手との共通点を探し、自分と違うものを排除する、というコミュニケーションを無意識に取り続けてきました。
でも、実際にはみんな同じであるということはありえません。
他人と自分は、根本的にまったく違う人間です。
DNAも違う、育ってきた世代も家庭環境も違う。受けてきた教育も違う。食べてきたものも違う。幼少期から今に至るまでの交友関係も違う。
だからこそ、今のあなたと他人は、違って当たり前なんです。
金子みすゞさんの、「私と小鳥と鈴と」という詩をご存知でしょうか。
私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、たくさんの唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私。
みんなちがって、みんないい。
”私と小鳥と鈴と” 金子みすゞ
あの詩で語られているのは、人それぞれ得意なこと、不得意なことがあっても、それがそれぞれの個性で、みんな同じように素晴らしいんだ、ということです。
でも、ここで私の言っている「違うからこそ良い」というのは、そういうポジティブな意味だけではありません。
「他人と自分とは違う、だから私は私のままでいいんだ」という、根本的な安心感を感じてほしいということです。
大前提としてそもそも「他人と違う」という意識があれば、他人と違うことにストレスを感じないのです。
言いたいことが伝わるでしょうか。
仮にですが、モルモットのように、同じ遺伝子で同じ世代に全く同じ環境で同じように育てられたとしたら、どうでしょう。
結果に差が出てしまった、他の人に出来たことが自分には出来ない、となると、明らかにあなたの努力不足や、「何かが相手よりも劣っていた」と感じてしまうことになりますよね。
でも、幸運なことに、私たちは誰もそういう状況にはいないんですね。
同じものを見ても感じ方が人によって違う以上、まったく同じような影響を与えるということは出来ないんです。
同じ親から生まれてきたきょうだいだって、あるいは双子でさえ、全く同じように育てるということは不可能なんです。
だからこそ、「人と違う」ということが、「自分はこれでいいんだ、だって、私たちは違うんだもの」という安心感に繋がることになるのです。
「違うということの安心感」を分かっていただけたでしょうか。
他人と比較すること自体は悪いことではない。
「私たちはそもそもみんな違う」という大前提を分かっていただけた上で、そもそも他人と比較をしてしまうこと自体を責める必要はありません。
私たちは、自分ではない人間が周りに存在しているからこそ、自分を認識することが出来るんです。
例えば、自分の背が高いか低いかということでさえ、周りに誰もいなければ考えることもないでしょう。
ですので、他人と比較するということ自体は仕方の無いことですし、それ自体は悪いことではありません。
でも、比較した時に落ち込んでばかりいる自分に気付いたとしたら、
それは自分にとって不利な比べ方ばかりしている可能性があります。
他人のことは、ほんの一部分しか分からない。
あなたは自分のことを、よく知っていますよね。
どんな生活をしているか、どんな服やカバンを買って、内心どんな気持ちで過ごしているか。
一方で、あなたが他人について知っているのは、
その人の、ほんの切り取られた一部分だけです。
相手があなたに見せようとして見せているその瞬間を切り取って、
あなたの知っているあなたに関する全ての情報と照らし合わせて落ち込む、というのは、かなりあなた自身にとって不公平な比較方法だとは思いませんか。
そんな風に不平等に比べられて「ダメなやつだ」とレッテルを貼られている自分がもしも別人格でいたとしたら、ちょっと待った!と、大声で異議を申し立ててしまうのではないでしょうか。
他人に関することというのは、内面的な部分も含めると、あなたが知らない部分が大部分なのです。
職場で見せる顔、学校で振舞う姿、SNSなんてもってのほかです。
あなたがスポットで見ている、他人の長所や魅力というのは、彼らの生活や人生のほんの一部分なんですね。
自信満々に見えるあの人が、影でどんな努力をしているか、裏でどれだけのプレッシャーを感じて辛い思いをしてきたか知る術もなければ、
友達が多くていつも楽しそうに笑っているあの人の、笑顔の裏に隠された孤独感や焦燥感は、決して表には見えないのです。
勉強が得意でいつも成績トップなあの同級生も、家では毒親に心を蝕まれ、褒めてもらいたい一心で、勉強という愛される条件に、しがみついているだけかもしれません。
そういう、決して表には出てこない舞台裏の苦労を想像するだけでも、少し気が楽になってくるかもしれませんね。
自分の人生にフォーカスを取り戻そう。
他人と比べて自分に無いものや足りないものばかり数えてしまう。
これはある程度、仕方のないことかもしれませんし、多かれ少なかれ誰もが感じることです。
でも、そんな自分に気付いたらすぐに、「他人と自分は違うんだから、今持っているものが違って当たり前なんだ」という原点に立ち返り、
自分にあるものを見つめ直す、そこに感謝するということを意識してみてください。
自分は何も持っていない、すべてにおいて他人より劣っていると感じてしまう人もいるかもしれません。
でも、失うものがないというのはそれだけ有利でもあるのです。
それだけ伸びしろがあるということでもあります。
他人と比較して落ち込んでしまっている時間というのは、他人の人生にフォーカスがいっています。
他人の人生にどんなにフォーカスしても、その人生はあなたのものではありませんから、あなたには全貌を知ることも出来ないですし、その人生を生きることは決してできません。
他人と比較して落ち込んでいる自分に気付いた瞬間に、自分にあるものは何か、自分はこれからどう成長できるのか、どうやって幸せを感じることが出来るのかと、
一秒でも早く、自分の人生にフォーカスを戻せるようにしてください。
昨日の自分と比べてみよう。
使い古されたアドバイスかもしれませんが、他人と比較するのではなく過去の自分と比べるのです。
昨日よりも1ミリでも成長できていたらそれで良いんです。
時には、1歩進んで2歩下がったように感じるときもあるかもしれません。
それでもいいんです。
人生というのは長いものです。
失敗はつきものです。
くじけることも、倒れることも、あっていいんです。
何年も経った後、ふっと振り返ってみると、自分でも気づかなかった程ずいぶんと高い山に登っていたり、遠くまで来ていたり、するものです。
他人と比べて落ち込むことばかり続けていたり、昨日今日の成功や失敗にとらわれて、クヨクヨして立ち止まってばかりいるには、人生は長すぎます。
過去の苦労もいつか笑い飛ばせるようになる。
そんな魔法の力を持っているのが時間です。
でもその魔法は、未来に立って過去を振り返ったときにだけ発動するもので、残念ながら今この瞬間には、出ないんですね。
私たちは、魔法の使えない現実の一瞬一瞬を、生きることしか出来ないんです。
その中で、その一瞬一秒に、「自分は前に進んでいる」「少しずつ成長している」と実感できることが、日々の充足感や自信、更に前に突き進むエネルギーに変わっていくんですね。
良いも悪いも、作られたもの。
もう1つの視点として、あなたが羨ましいなぁと感じているその対象は、本当にあなたの人生にとって価値があるものかということも必要です。
なんとなくキラキラしている、楽しそうで豪華そうなものを、ぼんやりと羨ましがっていませんか。
そもそも私たちが価値を感じているものというのは、そのほとんどが人為的に作られた価値です。
例えば多くの人が欲しがっているお金ですが、日本円をどんなにたくさん持っていても、換金の出来ない別の国では、ただの子供銀行の紙切れと変わりません。
お金という概念自体が、「このお金にはこれだけの価値がある」という作られたもので、それを多くの人が信じているから機能しているだけなのです。
美意識だって、国と時代が変われば変わっていくものです。
私は、背が高くて骨格がガッチリしていることがずっとコンプレックスでしたが、海外では魅力的に捉えられています。
戦後の日本では銀シャリとまで呼ばれて有難がられていた白米が、昨今の健康ブームや糖質制限ブームで、「白い悪魔」とまで呼ばれています。
このように、今私たちが信じていること、価値を感じていることというのは、人や場所によって違うものですし、それが将来も同じように価値があると信じられているとは限らないんです。
それほど物事の価値や、良し悪しというのは、個々人でも感じ方の違うものですが、更に時代や権力者の都合で変わりやすい、不安定で移ろいやすいものなんですね。
なので、私たちが何かに価値を感じていること自体、錯覚ともいえるんですね。
他人と比較して自分が劣っていると感じている時に、その対象が、本当に自分にとって価値があるものなのかと、問いただしてみることも重要です。
豪華な生活、魅力的な見た目、たくさんのフォロワー、そういう表面的な、移ろいやすいものが、キラキラして素敵に見えることがあるかもしれません。
でも、それが本当にあなたにとって、長い人生において、それほど重要なことでしょうか。
自分の人生にフォーカスを戻すというのは、自分自身の本当の幸せとは何かということをよく考え、そのことにフォーカスすることでもあります。
あなた自身が望む幸せが何か、どの程度のものを犠牲にしてどこまで手に入れたいものなのか、よく考えてみることも大切です。
最後に。
「今あるもので幸せを感じられないなら、一生幸せになれないよ。」
私もかつて、そんな風に言われたことがあります。
自分に自信がなく、他人と比較して落ち込んでばかりいた時期もあります。
やっぱりそういう時というのは心がとても苦しくて、毎日が辛いんですね。
自分でまだうまく気持ちを切り替えられないという人は、
原因となっているもの、たとえば特定のお友達であればお付き合いを控えても良いですし、SNSであればしばらく離れたりするのも良いと思います。
でも、根本的には、今日お伝えした大切なことを心に刻んでいただきたいと思っています。
他人と自分は違っていいという安心感、自分以外の他人のことは実はほとんど分からないということ、そして自分は自分の人生しか生きられないことを思い出し、
今の自分にあるもの、自分が価値を見出して目指すものを意識して、自分自身にフォーカスを戻すということを、少しずつでも良いので、練習してほしいと思います。
あなたが自分に自信を持って成長の活力に出来るような比較であれば、どんどんしていただいて構いません。
でも、あなたから自信を奪い、成長の意欲すらも削いでしまうような比較なのであれば、今すぐにやめましょう。
かといって、他人と比較してしまう自分を責めたりする必要はありません。
他人と比較してしまって落ち込むのは、自分のことが本当は一番大好きだからですよね。
だから、本当は大好きな自分を、「自分には、あれもない、これもない。」と責め立てるのではなく、もっと優しく、大切にしてあげてください。
「あの人にはこれがあるのに、自分にはないように感じて、寂しいんだよね、悔しいんだよね。分かるよ。」と、慰めてあげていいんです。
でも、そのうえで、今の自分が手の中に持っているものに価値を見出して、きちんと認識してください。
そうすると、「でも、自分にはコレがある。あれもある。いっぱいある。そして今の自分はこんなことを頑張ることもできる。」と、気付けるのではないでしょうか。
そんな風に、今ある幸せや自分の可能性に、自分で気付くことができるようになれば、他人と比較して落ち込んでしまっても、すぐに立ち直れるようになるはずです。
周りの人がどんなにあなたと他人を比べて、あなたを責めたとしても、
あなただけはいつも、世界で一番、大好きで大切なあなた自身の、味方でいてあげてくださいね。
そんな、人間らしくて素敵なあなたを、今日も応援しています。
神田華子でした。