不特定多数の相手に向けて発信するということ

今日は、単なるつぶやきです。

私にとってブログでの発信の目的は、自分の学習や思考のアウトプットの場としてという側面もありますが、

それを通して、読んでくださった方が、何かを学んだり、新しい発見があったり、気持ちが軽くなったり、勇気が出たりしたらいいな、という思いで始めました。

でも、書きたいことはたくさんあるはずのに、いざ書こうとすると、不特定多数に向けて発信することに対する責任の重さで、なかなか記事を完成させられないんですね。

ブログを始めた初日から早速、数時間かけて中途半端な記事をいくつか書いて、

「あれ?このままだと未完成の下書きがどんどん増えるだけなのでは……?」と、思い始めました。

ブログとは、自分の意見を自分のプラットフォームで発信するための、個人的な考えや感情を世界に向けて共有するという、極めて自己満足な場ではあるのですが、

私はブロガーとしてではなく、駆け出しといえどカウンセラーとしてブログを書く以上、ある程度の責任を感じています。

「誰かに伝えたい、読んで欲しい」と思うだけで、「きちんとしたことを書かないと」「間違いのないように詳しく調べないと」という気持ちが、すごく強くなってしまっていたのです。

その思いが強すぎたせいで、発信をするということがとても難しく思えたのですが、

それは裏を返せば、「きちんとした事を書いている人だと思われたい」「間違いや足りていないところを否定されたくない、攻撃されたくない」という、自分のエゴと弱さの現れだということに、気付きました。

そして、そういう自分の虚栄心や見栄を自覚して、受け入れた時、スーッと力が抜けて、心が軽くなった気がしたんです。

私のアウトプットで、誰かの人生を劇的に変えることは出来ないし、

万人に賛成してもらえる意見を書くことなんて、絶対に出来ない。

ましてや、物書きでもない素人がブログを書き始めたばかりで、

誰かを救えるような、感動してもらえるような、100点満点の記事は、書けなくて当然。

自分にとって60点の記事でも良いので、とにかく発信してみる。

どんなに伝えたいことも、まずは発信しなければ、絶対に、誰にも、1ミリも、伝わらないのだから。

私の記事を読んでくださった方が、どう感じるかというのは、私には把握もコントロールも出来ないのに、それを意識した途端、急に息苦しくなり、何も書けなくなってしまいます。

自分がそうだと信じること、良いと思うこと、役に立つと思うことを共有するだけで、誰かが何かを感じてくれるかもしれない。

私の記事に共感してくれる人がいたら、それによって自分の考えにもっと自信がついて、勇気が出るかもしれない。

共感出来ないとしても、そういう見方もあるんだ、こういう考えの人もいるんだと、新たな視点を発見できるかもしれない。

その新しい視点が、その時すぐでなくても、未来のどこかの時点で、その人の心を少しでも軽くするかもしれない。

日々の気付きや勉強というインプットの中から、私自身が救われたり、興味を持ったり、良い考えだと思うから、アウトプットして紹介する。

私という等身大の人間は、それ以上のことは、出来ないんですね。

こんな、人間関係の基本的な価値観を、ブログを書き始めてから、改めて実感することが出来ました。

やっぱり不特定多数に向けて発信するというのは、大きな勇気と責任を伴うものです。

日頃から「他人がどう思うかは、自分ではコントロール出来ない」という不変の原則は、頭では理解出来ているはずなのに、

一瞬とはいえ、その原則を忘れて悩んでいた自分が、そして、ブログを書き続ける限り、おそらく悩み続ける自分が、とても滑稽で、弱くて、でもふてぶてしくて、愛しいなぁと思いました。

これからも、自分がなぜブログを始めたか?という目的を忘れずに、発信者であるという責任感を持って、誰かの今日や未来に、少しでも役立つような記事を、書き続けていければなと思います。

そのためにも、日々、勉強ですね。

神田華子でした。

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