『それでも人生にイエスと言う』~あなたの『今』をもっと輝かせるために

本日のブログタイトルになっている、『それでも人生にイエスと言う』という本は、

ヴィクトール・E・フランクルさんという、心理学者・精神科医の方の有名な著書です。

フランクル先生は、第2次世界大戦中、ナチスの強制収容所で、

まさに地獄のような生活を強いられました。

そんな過酷な日々を生き延び、終戦翌年の1946年にウィーンで行った講演をまとめたものが本書となります。 

経歴を聞いて、このタイトルを改めて読むと、

大変心を打たれますよね。

社会や人間にたくさん絶望して、希望を失いけたこともあったのではないでしょうか。

人間の醜い部分をたくさん見せつけられ、

人として生きる価値、命の尊厳について、何度も何度も問いただしたのではないでしょうか。

そんな彼が、生きる意味について力強く説いている本書ですが、

その中で私が印象的だったのは、死に関する記述です。

私たち人間には、死や制限があるからこそ、人生に価値が溢れる。

今日は、そんなフランクル先生のお言葉を借りながら

私なりの生死観を、お話したいと思います。

私たちはいつかみんな死ぬ

どうせいつか死ぬなら、全て消えて無くなるのであれば、

生きることはなにも意味が無いことでしょうか。

人生を通して得るもの、出会う人、喜びや苦労、努力、思い出。

何も意味がないのではないか?

そんな問いに、フランクル先生は答えます。

「いつか死ぬ」から、人生に意味が無いのではない。

「いつか死ぬ」から、人生に意味が溢れてくるのだと。

苦しみや死があるからこそ、生きることに価値がある、ということですね。

これは、仏教的な考えにも似ているなと思いました。

私は仏教を専門的に学んだわけではないのですが

小さい頃から親の影響で、お寺でお坊さんの説教を聞いていたり

そこで配られた冊子などを結構読んでいたので、

私の人生観、生死観には大きく影響していると思っています。

日本人には馴染みの深い【無常観】の価値観もとても好きです。

限りがあるからこそ価値がある

時間は有限です。

生命には限りがあります。

こんなに不平等な世の中で

私たちはみんな、それぞれたくさんの、

色んな制約の中に生きています。

でも、その事実こそが人生を意味のあるものにするんです。

もし無限に生きられる世界に生きていたら

今を頑張って生きることにどれだけ価値があるでしょうか。

大事な人に会うことに、どれだけ重みがあるでしょうか。

永遠に続かない、終わりがあるからこそ輝く時間があります。

深いですね。

日常生活でも感じていること

哲学的な話のように感じられるかもしれませんが、

私は、このようなことをいつも日常生活レベルで感じています。

人はいつ死ぬか分からない。

だからこそ今が尊く、変化し続けるからこそ今が愛しい。

なので、仕事に出かける時や寝る前は

必ず家族とキスをしたりハグをしたり

大好きだよと、言葉にして伝えています。

幸せだなーと、声に出して言っています。

理由は、次生きて会えるか分からないから。

帰りに私なのか、誰かが事故に遭うかもしれないし、

夜寝たら、朝には目が覚めないかもしれない。

私がこのように死を身近に感じてしまうのは、

父が幼い頃に亡くなり父親がわりで可愛がってくれたおじさんも

立て続けに亡くした幼少期の喪失体験から来ていると自分では思っています。

人はいつか死ぬし、いつ死ぬか分からないし、

それは、誰がどんなに祈っても避けられないことだ。

そんなことが、心に深く刻まれたんだと思います。

なので、例えば夫婦喧嘩なども、持ち越したくないし、

根本的な解決はしなくても険悪なムードはすぐに解消したい。

万が一何かあった時に、後悔したくないからです。

命があって、自分で言葉が出せるうちに、

たくさん愛情を伝えたい。

幸せだと伝えたいんですね。

でも、命が無限で、今感じている幸せが永遠に続くものだったら、

こんなに尊く感じないでしょうし、

こんなに目の前の日々を、愛しく思えないかもしれません。

明日も10年後も100年後も同じように生きられるなら、

今、頑張る必要はないですよね。

価値がなくなってしまいます。

問い続けることに価値がある

私たちはみんないつか死ぬ。

これが逃れようのない事実であっても、

その事実に対し、その人生に対し、私たちがどんな態度をとるかに、

生きる意味を見いだすことができると、フランクル先生はおっしゃっています。

人生に価値があるのかを問うこと自体が間違っているのです。

私たちが、人生に価値を問い続けることが大切なのです。

もう1つ、最後にフランクル先生のお言葉を紹介しますね。

私たちが人生に絶望しても、

人生は私たちに絶望しない。

この言葉を、あなたはどう捉えますか?

生きる意味・死ぬ意味を考える意味とは

生きる意味、死ぬ意味について、

考えること自体に意味はないかもしれません。

考えたことがないと言う人は、それでもいいと思います。

ただ、死を意識することで、今ある『生』が、より輝くことは実感しています。

私は、いくつか前の記事でも、生きる価値についての投稿をしていますが、

私たちは皆、理由も分からず生まれてきて、

否応もなく、与えられた命でこの競争社会で生きていかなければいけない。

それは時に、すごく辛く、虚しいことに感じられると思います。

進む道が分からない、自分の存在価値を感じられない、

そんな風に人生に絶望したくなる時も、時にはあると思います。

生きることとは、

いつの間にか始まっていた自分の命で、

「いつ来るか分からない死に向かう旅」だという例えも聞いたことがあります。

その時を、どう迎えたいか。

死ぬ時に、どんな気分でいたいか。

それは、今をどう生きるかにかかっているんですね。

そんな風に今をかげがえのないものと捉えることで、

より一層、今この瞬間の重みが、輝きを増すんじゃないかなと思います。

これを読んでくださっているあなたも、

長い人生、色んなことがあると思います。

それでも、自分の人生にイエスと言える、

そんな毎日を過ごして欲しいなと思います。

あなたの「今」が、もっともっと輝きますように

応援しています。

最後まで読んでくださりありがとうございます。

神田華子でした。

音声でも是非聴いてみてください(お願い)

今回のブログの内容につき、スタンドFMという音声配信サイトの中でもお話しています。

スタンドFMのアカウントをお持ちでない方も、ウェブから聴いていただけますので、

よろしければ是非聴いてみてください。(23年6月8日の朝7:15に公開されます。)

『それでも人生にイエスと言う』生きる意味、死ぬ意味とは?

ワイヤー矯正を始めて1週間、まだまだ話をするときに慣れず、

滑舌がいつも以上に悪いのですが、(果たして良くなるのか…)

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